孤独な戦いである現実を語る芸術的な漫画があってもいいだろう

理解される存在としてのキャラクター

漫画のキャラクターには、行動と心情が文字や挿絵による情報として与えられている。

読者は、なぜその行動に至ったのか、何を考えていたのかを理解し、考察できる。プロローグや心情描写、エピローグがそれを補強し、キャラクターは常に理解される前提で存在する。

そこには俯瞰する視線があり、成長は見守られるものとして描かれる。神に観測されているかのような安心感がある。

説明されない現実の成長

現実では事情が異なる。行動の裏にある思考や感情は共有されず、誤解されたまま関係が終わることもある。内面が知られないまま評価だけが残る。
想う気持ちも、情熱も、自分自身の愛の形を、誤解されたまま終わる。

成長は、罪悪感、寂しさ、恐怖と同時に進行する。勇気は結果が保証されないまま消費され、理解者の存在も約束されない。

誰にも理解されない、常に孤独の戦いであることは自明であるはず。

エンタメという前提の干渉

私は、そのような人間の生き様に美しさを感じる。このような現実を描く物語があってもよいはずだ。
あえて、人物の心情描写をなくし、連続的な視点で描く…そんな物語があってもよいはずだ。

しかし、思考を進めると「漫画はエンタメである」という前提が立ちはだかる。エンタメは、受け手が楽しむことを至高の価値とする。読者の満足が、作品の成否を決定する。

自分主義としての創作姿勢

私はその枠組みに適合しない。

創作において、他者を喜ばせることを動機にしたことがない。飽くまでも、「俺が勝手にやった」、という文脈が付随する。

自分の関心や思考を掘り下げる行為そのものが目的であり、受け手の反応は付随的なものに過ぎない。

芸術と呼ばれる現象

そのような過程で生まれた表現が、稀に社会から価値を与えられることがある。人はそれを芸術と呼ぶ。私はその解釈を受け入れている。少なくとも、エンタメとは異なる評価軸が存在すること自体は否定できない。

私のように、自分の世界観を所有し、動かす…独裁者タイプの人間こそが芸術家になるに足るのではないだろうか。

私は芸術によって、孤独な現実の戦いを賛美したい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました